癒しの色

ジョセフ・ポラック


カネムと偶然出会ったのは2012年の秋だった。最初のうち、カネムを国際的に有名なライターで、かつ少々変わった考え方の持ち主、という程度にしか認識していなかった。しかし5回ほど新宿の居酒屋で会い色々な話を聞いているうち、カネムが画家でもあることにも気が付いた。刺身や日本酒などを楽しみながら、実は彼女が日本の書道家が使うような筆を探しているこを知った。しかも彼女は最高級品といわれる鹿毛の地染め刷毛の入手に興味を持っていたのだ。

彼女がダカールに戻るフライトの直前、ようやく私たちは探していた筆を見つけることができた。92才の母親へのプレゼントとして二着の綿のゆかたをも買い求めた結果、カネムが新宿の京王プラザホテルから成田空港に向かう最後のバスに乗り込んだのは、発車時刻の直前だった。

それから数か月後、彼女から連絡が入った。彼女は、北アメリカ、西アフリカ、スカンジナビア、そしてカリブ海諸国を渡り歩いていた。彼女のスカイプ・サイトには、最近の作品が紹介されていた。彼女の所在地を示す時間帯はしょっちゅう変っていた。スカイプのカメラは、彼女のスタジオの窓を通して美しいアフリカの風景を映し出していた。そして未完成の作品には、私が見たばかりの風景の一部が描き込まれていた。私は、セネガルの若い女性、カネムの現地の学生の一人、と二三、言葉を交わした。

そのときの私には、彼女との短い出会いが、彼女の心の中の世界、学者の外見に隠された芸術家、を理解するための入り口に過ぎないことを知る由もなかった。私の興味は、彼女の絵の不思議な色の使い方から、そのような絵を描いている彼女の心理へと次第に移っていった。絹地に日本の柔らかい筆を使って描かれた軽快で豊かな色使いの絵の中に、私はちょうどルネサンス時代の画家のように、科学と芸術に渡る広い才能と強い意志を持った女性を見出すようになっていった。

多様な文化のもとで育ったカネムは、伝統的な治療法と、何十年に渡ってHIVやAIDSに感染した人たちとかかわり続ける伝染病学者としての活動との融合に興味を向けていた。このような結びつきの影響は、いくつか最近の絵画にも見て取ることができよう。彼女の絵の構成は、彼女の経歴に起因する内的対立にも根ざしているように見える。幾つかの作品では、複雑な色と予期できないような形状を、冷静かつ知性的に構成している。また他の作品では、まるで忘れられない過去の記憶を呼び覚ましつつ描いたかのように、感情的なもろさを吐露している。あたかも井戸の底深くから静かに湧き出てきたかのように、色使いは抑制されている。

カネムの作品を見ると、彼女の人並みならぬ人生について思いめぐらさずにはいられない。

彼女は最初、祖国パナマから遠く離れ、西洋医学を学んだ。先進分野でいくつか学位を取得した後、米国のハーレムで実践的な治療活動に入った。しかしながら、そこに住む貧しい人々には、必要とする物資や保護が十分にいきわたっておらず、強いフラストレーションを感じた彼女は、次第に慈善事業の分野にも乗り出すようになった。そこで、特にアフリカ系の婦人たちのために、公共保健衛生の代弁者として活動した。彼女はまた、今でもアフリカで行われている伝統的な民間治療法の価値を認識するようになった。さらには、ネイティブアメリカン、カリブ海諸島、ペルーのシャーマン達、などなど、ニューヨークのオフィス街からは遠く離れた、それぞれの土地に残る様々な知恵からも、多くのインスピレーションを受けることができることに気が付いた。

カネムは研究対象を狭めた。まるで彼女の心は、ゆっくりと純粋科学から離れ、自由に飛翔する色の世界に移動したようだった。次第に、絵、それも癒しのための絵、の制作に集中するようになった。芸術の自由な世界に魅惑を感じながらも、一方で彼女はリスクを冒すことはしなかった。彼女の友人達がフルタイムの芸術家であることを当然のように考えているのとは対照的に、彼女自身はちょうど学者がやるように、サバティカルな時間を芸術に充てるという方法を選んだ。彼女の言葉を借りれば、そのために、セネガルにあるエコ村、芸術家のオアシス、あるいは小説家や詩人の避難所、で時間を費やす、ということになる。そこで、彼女は制作の自由を満喫したのだ。

彼女の旅が多い生活と、国際学会やコンサルティングなどで多様な人々に出会うことは、彼女の感情を消耗させる一方、印象の源にもなっている。絵筆をもてない状態におかれながらも、カネムは再びアトリエに戻れるときを待つ。そこでは自然の美しさに感嘆しながら、孤独を楽しみつつ、旅から旅への生活に休止符を打つことができるのだ。

女医でもあるカネムは、世界の半分を旅しながら、風が木々の間を通り抜ける時の色を探す。そして、祖先のさまよえる魂を追い求める。

静かで力強い一枚の絵は、彼女の一面から、他の一面への変化を物語っている。一人の医師として、彼女は死というものに理性的に、かつ職業的に向き合ってきた。それでもなお、ある葬儀の記憶を、彼女は消し去ることができなかった。埋葬が終わり、車にもどる道すがら、カネムは空の色を心に描く。それは特別な青色で、白樺の半透明の表皮を風が運んでいく。彼女は光を見たのだ。そしてその光は、ニューハンプシャーの墓地から何千キロも離れた所で、記憶の中から絹地の上に再現された。葬式で見た光の記憶を、トリニダードで六か月かけて絹地に再構築したのだ。その記憶は、この日本のネット上のギャラリーにおいて、新たな形でこれから再生されようとしている。

ネット画廊のキュレータで、自身でも絵を描くヒトミは、カネムの風変りな芸術の経歴と、豊かな色彩に魅力を感じ、故大森画伯の展示の次に、カネムの絵を紹介することにした。カネムを紹介するにあたり、ヒトミは日本の若い世代の芸術家の友人たちも、この海外の芸術家の人生や作品からインスピレーションを受けてくれればと期待している。これらの作品は、銀座の画廊では決してみる機会のないものばかりである。大森画伯の古典的な絵画にしても、銀座の画廊で展示されたのは、40年も昔のことなのだ。

ヒトミは、この医師から転じた画家の作品を、どうしたら最良の形で紹介できるのか腐心していた。熱帯雨林に潜む沈黙の音、というメモ書きで作者が意図するものについて、私たちは意見を交換していた。そのとき、カネムから、生きている「ミトコンドリア」の中に全世界が閉じ込められているという魔法のような言葉を理解するためのヒントを受け取った。

ミトコンドリア?

ある日、アフリカの隠れ家にいるカネムから電話が入り、最近完成した作品について説明を受けた。彼女が「生きているミトコンドリアは太陽そのものなのよ」と言ったとき、私は言葉を失った。すでに私が住む古都鎌倉の夜も更けていた。私は、医学的には素人の芸術愛好家であることを説明し、「ミトコンドリア」がいったい何なのか見当もつかないことを説明した。彼女は全く意に介さないようすで、「ミトコンドリア」の色について詳細な説明を続けた。何日か後、彼女が南インドのタミル・ナズにいるときにも私たちは、また同じ話に戻った。すると彼女の心も、ミトコンドリアを絹の上に移す作業に戻っていった。私が依然としてこの分野に無知であることに驚きながらも、カネムは私に、私たちの体や、生きている細胞の中の活動の仕組み、エネルギーが生み出される過程の不思議について、簡単な講義をしてくれた。それでもなお私の理解が不十分だったのか、彼女は「グーグルで調べてみたらどうかしら!?」としびれをきらした。

彼女の中で、学者と芸術家の関係が逆転した。彼女の言葉は正確で、説明的で、合理的で、無感情となった。たった今まで彼女が「コスミック・フラッシュ」と呼ぶ青と金色の自由に浮遊する影を喚起する構成について話していた、学者の中の芸術家は姿を消した。

カネムは、色を用いた芸術は瞑想と同様の効果があり、ある色の組み合わせには癒しを促進する効果があるという。とはいうものの、彼女の絹の作品に投影された感情は、学者の理性とあらかじめ計算されつくされた色だけで生み出されたものではなく、目で見ることはできない色に導かれて描かれたものである。その色は彼女自身が生きることの痛みを癒すための色なのだ。だからこそ、その色は彼女の絵を見る私たちをも癒してくれる。

© 2013: Joseph Polack, Japanese translation: Hitomi Abe