富士を描いて三十年

大森明恍


富士山画家と言われるまで

武者小路実篤さんが何かの随筆に『窓をあけたら富士山が見えた。絵筆があった。しかし富士山は描けない。富士はあまりにも立派だ。完成された芸術品だ』という意味のことを書いていらっしゃいますが、私は『立派な、完成された芸術品』だからこそ描きたいのです。描ける、描けないは別にして、取り組んでゆきたいのです。その私の気持ちの中には富士山が立派なモチーフであるとか、秀れた造型対象であるということ以上に、審美的な信仰の対象のような気持ちかあるのです。と言っても、所謂"富士講"といった神仏観念はなくて、芸術的感激といった気持ちです。「富士山に惚れる」といったらよいのでしょうか。

いま考えてみますと、私の人生は富士山を描くように、描くようにと、まるで運命的に富士山にひき寄せられているのです。生まれて始めて富士山を仰いだときの感激---それはもう三十年も昔のことなのに、まるで昨日のことのように、生き生きと思い出されます。北九州、玄界灘の故郷から十七歳のとき、笈を負うて上京して、岡田三郎助先生の門をたたいたわけですが、その状況の途次、大正八年十一月三日、明治節の朝でした。東海道線由比、沼津のあたりで富士をみたときの驚き、それはまさしくショックといった方が正しいでしょう。青雲の志に燃えていて、こちらの心の状態も昂ぶっていたのでしょうが、あまりの嬉しさに窓にしがみついて泣いたのを覚えています。「幸いにして絵かきになれたなら、生涯を賭けて富士を描こう」と、それまで考えてもみなかった決心がついたのです。こんなふうで岡田三郎助先生の研究所に入ってから、暇があると絵具を箱抱えて御殿場あたりまで行って富士山のスケッチをやったものです。私は割合早く二科に入選することが出来ましたが、生活的にはなかなか苦しく、工場に行って働きながら画の勉強を続けたようなありさまです。二子玉川あたりで、富士山のスケッチをしたこともあります。

そんな私に人生の転機となるような出来事がありました。ある実業家の肖像を描きあげたときのことです。お礼に貰うお金で富士を描きに行くつもりだという話をすると、その実業家が「そんなら御殿場に私の別荘がある。夏場は困るけれど、秋から冬にかけては空いているから貸してあげよう」という話で、妻と子と一家四人が生活的にギリギリなところに追い込まれ、ガスも切られ、電気も切られというていたらく、絶対絶命の私たちにとって、地獄で仏の思い、逃げるようにして御殿場に移ったわけです。しかし、富士山を描きたい一念の私にとっては、希望に燃えた都落ちだったわけです。これが私が御殿場に住むようになった動機です。爾来二十五年ほどのうちに、富士岡村の丘に山小屋式のアトリエを建てて住んだり、子供たちの通学の関係から御殿場の駅の近くに移ったり、さらに最近は乙女峠の麓、眺望の最もよい地に移るという風で、ずっと富士を眺めてくらすような、私の生活が始まったわけです。

Studio like a mountain hut

山小屋式のアトリエ

まず、雲を描く

貸して貰った別荘に住んで、二か月、三か月、ちっとも富士が描けない。毎日、朝から晩まで富士を眺めては「富士はいいなあ」とほれ込んでいるのですが、筆をおろすことが出来ない。手が出ないのです。あの単純な姿の富士が複雑微妙、変幻万化、生き物のようなのです。ジリジリしたような日が続きました。私の生涯での、一番苦しんだときです。そのときハッと思い当ったことは、風景画家として富士を描くなら、まず雲を知らなくとはならない。絵かきは空気が描けたら一人前の絵かきです。(印象派に傾倒していた私は、光線と空気については、それまでも勉強していました。)風景の場合、空気は空と雲だ。雲を掴まなくちゃいけない。積乱雲とか層雲とか、そんな常識的なことしか知らなかった私は、富士山には富士独特の雲があるに違いないと雲の研究を始めたのです。そんな矢先、裾野の一角に、小さい西洋館のあるのを見つけて近づいて見ると屋上に風信機、風速機が見える。これは測候所に違いない。何か参考になる気象のことを教えて貰えるかも知れないと訪ねて行くと、若い所員が出てきて「ここは阿部雲研究所といって、個人経営の雲、気流の研究所だ」という話で、一週間に一度東京から主人が来るから、そのとき相談してみましょうということでした。数日して、使いの人が来て、遠慮なく来てくれということで、行ってみると、何千枚という雲の写真がある。学術写真ですから、空の部分を黒く焼きつけてあるのですが、富士山独特のつるし雲とか笠雲、雲海などが四季にわたって、こまかく撮影してあるのです。私か雲を勉強したいと言うと、温厚篤学の紳士である主人は大いに私を励まして下さって、興味深い話をいろいろ聞かせてくれるのです。初対面から私たちは非常に親しくなり、その紳士が東京から来る度に連絡してもらって、雲の形態について個人講義のような話をきいたわけです。半年ばかりして、ようやく私の四十号ばかりの絵が出来たので持って行くと「西風の吹いた場合には、こういうふうに雲が動いてゆくので、この絵で間違っていません」というように、科学的な立場から私の絵が嘘でないことを証言してくれたのです。そして「大森君、外国のことは知らないが、日本人で君ほど雲を知っている絵かきはいないだろう」と喜んでくれました。私は阿部さんの身分など知らずにおつき合いをさせていただいていたのですが、後に聞くと酒井忠正伯爵の兄さんで、やはり伯爵、理学博士、阿部正直という方ときいて、私はびっくりしてしまいました。その方の紹介で華冑界の方たちに絵を世話していただく機会も出来、月々の絵具代を後援されるなど、いろいろと面倒をみて下さいました。どうも運命論的な言い方のようですが、私の人生は富士山画家となるべき不思議なコースが与えられていたようです。

富士山の美

富士山の見える日は機嫌がいい---と、家の者たちが言うのですが、毎朝、午前三時に起きて、私は富士山を待つのです。いつも始めて見るときのような期待と喜びとで夜明けを待つのです。寝てはいられないのです。暁の富士には音楽的なものすら感じます。ほんのり白い色が刻々と紫になって、いま、あそこに陽が当たると思った瞬間、さっと赤富士に変り、それがクリーム色に変ってゆく、この数十分の千変万化のありさまは、本当に筆や言葉では尽くせない感じです。三十年富士山を眺めている私に「富士山の美」を訊かれるとき、私はいつも、この筆舌に尽くし難い思いがするばかりです。ふさわしい言葉がないのです。では、自分の絵で説明することが出来ればいいのですが、画の方では傑作は一枚もない。とても富士山の美など描けるものではない。富士山を冒涜しているような、慙愧に絶えないというような気持ちで一杯です。

造型的に言って、あの円錐曲線の美だとか安定感の美だとか、そんなことを言っても始まらない。白妙の富士が美しいとか、夏富士がいいなどというのは贅沢。表富士がいいの裏富士がいいのという議論も、その土地の宣伝文句であって、富士はどこから見ても美しい。ただ描きたい富士と、描きたくない富士というのはあります。崇高な富士にくらべて非常に陰惨な般若の面のような富士がある。真冬のまっ白い富士が逆光線になったときで、なんとも言えない妖気がただようことがあります。それも瞬間のことで、雲の動きとともに柔和な姿に変わってゆく。絵筆を持って、じっと富士を見つめていると、思わずキャンバスの上に絵筆が走る。いつ見ても、どこから見ても美しい。そういう他しかないのです。それでいて、まだ一枚も富士の美を描けていないということは、なんという不幸、私は死ぬときに富士山に向かって「申訳ありません」と言って死ぬ男です。

こんなふうですから、他人の描いた富士山にも感心したことがない。富士山の美を本当に描いた絵など、まだ一枚も無いと思っています。北斎の富士山は有名だがスケールが小さい。富士山のヴォリュームが感じられないのが残念です。しかし北斎は才人で、つかまえどころが面白いと思っています。斬新なコンポジションで、富士がいつも生きているように思います。神奈川沖波裏の富士とか晴天凱風、いずれも面白い着想です。雪舟にも「三保の松原」「清見寺の富士」が有名ですが、気品とか風格というものが狙いであって、富士山そのものを描いているとは思えません。近代では渡辺崋山でしょう。遠州田原藩から江戸への途次スケッチをしたと思われる、非常に写実的なところが、マンネリズムの南画と違って、素直で惹きつけられるものがあります。大雅堂とか谷文晁の富士も有名だが、私は好きではありません。日本一の富士ということを、あまりにも意識して、富士を描かんための富士になっています。

現代作家では、梅原龍三郎さん、曽宮一念さんといった大家が描いていますが、ああいうデフォルメをするのは富士山を冒涜するような気がします。私もデフォルメしてみたいと思ったことがありますが、富士山と対決していると、デフォルメする気にならない。デフォルメして、富士の崇高さが描けるならばいいのですが、なにか自分流の富士山を描いているという感じで、あれならば、なにも富士を描かなくてもいいという気がします。

画家として、それぞれ尊敬している大家の絵に、こんな暴言を吐くというのも、生涯を富士に賭けた男の気魄と、神も笑覧あれ。

芸術新潮(第4巻第7号, 昭和28年7月, 63-65ページ)より


ぴ・い・ぷ・る

「只今」前回の個展以来三年間、富士への私の画道は更に厳しかった。毎日の明け暮れ、画室の窓から執ように山の本質、大空へ聳立のマッス、軽妙な山雲の流動を、凝視しては動かぬ筆をどんなにか血の出る念力で対決して来たことか。加ふるに印象派以後から近世非出の巨匠、誰彼の反映、反響、唐宋元からの東洋美術への憧憬、それらの種々様々が私の画道を刺激してやまない日常であった。今の画壇のグループに何等縁故もない私は独自な画境に生きてゆく。鈍重な油彩と、割に軽快な素描淡彩、これが現在僕の道だ。富士山ばかりを描いているが今にヒマラヤやアルプスの山々をも描いて見たい、近頃問題のマナスルやカラコルムが明日にも描きに行けさうな気がしてならぬ。

芸術新潮(第7巻第8号, 昭和31年8月, 35ページ)より