大森明恍(明治34年-昭和38年), Meiko Ohmori(1901-1963)
略歴
- 1901年(明治34年): 10月18日、福岡県遠賀郡芦屋町2030番地に生まれる(本名: 大森桃太郎)。
- 1919年(大正8年): 画業を志し岡田三郎助指導の本郷洋画研究所に入門する。
- 1921年(大正10年): 第8回二科会展覧会(9月9日から29日)に「浪懸夏光」を出品、入選する。
- 1933年(昭和8年): 富士山研究の目的貫徹の為、富士山麓御殿場在富士岡村諸久保に一家をあげて東京より移住し、専念、富士山画研究に没頭する。
- 1934年(昭和9年): 「富士山の雲・気流の研究」について阿部正直伯爵の指導を受ける。
- 1938年(昭和13年): 「第一回富士山画個展」於東京銀座資生堂ギャラリー(2月1日から5日まで)。
- 1939年(昭和14年): 「第二回富士山画個展」於東京銀座資生堂ギャラリー(7月26日から30日まで)。
- 1940年(昭和15年): 橿原神宮に富士山画を献納(6月2日)。渡辺徳逸氏の依頼により、日本画絵巻物「愛鷹紀章」二巻を製作、大正天皇御遺蹟資料として、皇太后陛下に台覧を賜う(9月)。
- 1941年(昭和16年): 「近作個展」於東京銀座青樹社画廊(9月9日から13日まで)。
- 1942年(昭和17年): 「富嶽展」於東京銀座青樹社画廊(4月9日から13日まで)。
- 1943年(昭和18年): 四反田に転居。
- 1946年(昭和21年): 6月、日本橋三越にて個展開催。総司令部教育情報部長ロバート大佐に好評をいただく。
- 1949年(昭和24年): 2月、資生堂ギャラリーにて「直心画会」と題し個展開催。「春の富士」二点、サンパウロ文化協会会長大竹忠次郎氏の所望により、アメリカ、ブラジルに渡る。6月、明治大学内にて富士山個展。10月下旬、交通公社斡旋のもと、箱根宮ノ下富士屋ホテルにて個展開催。11月、宮内庁内文化部主催絵画展に特別出品した際、皇后陛下に拝謁し、富士山画製作の苦心談を申上げる。
- 1950年(昭和25年): 「大森明恍個展」於東京日本橋北荘画廊(4月10日から14日まで)。
- 1951年(昭和26年): 「富士山画個展」於九州小倉市井筒屋デパートにて開催、九州に制作旅行中、放浪画家山下清氏と熊本で歓談。
- 1951年(昭和26年): 御殿場町東山に転居。
- 1952年(昭和27年): 「富士山近作個展」於東京日本橋高島屋。
- 1953年(昭和28年): 「大森明恍近作展」於中央公論社画廊(5月27日から30日まで)。芸術新潮、第4巻第7号に「富士を描いて30年」掲載(pp.63-65)。
- 1956年(昭和31年): 「大森明恍近作個展」於東京銀座松坂屋中3階画廊(6月29日から7月4日まで)、松方三郎氏推薦状。芸術新潮、第7巻第8号「ぴ・い・ぷ・る」に近況記事(p.35)。
- 1957年(昭和32年): 「新作素描淡彩画個展」於東京銀座サエグサ画廊、松方三郎氏案内状。
紀州・熊野・奈良を作画旅行。「近畿旅行淡彩画個展」於東京銀座なびす画廊(12月15日から21日まで)。
- 1958年(昭和33年): 夏・秋に渡り南アルプスに這入り作画。
- 1960年(昭和35年): 十和田湖・奥入瀬へ作画旅行する。「大森明恍個人展」於秋田市本金デパート3階画廊。秋田美術館長奈良環之助氏、推薦案内状。
- 1962年(昭和37年): 伊豆・天城を作画旅行する。「富士山画個展」於東京銀座なびす画廊、最後の個展となる。
- 1963年(昭和38年): 1月5日、御殿場町東山にて永眠(61才)。
- 1992年(平成4年): 裾野市立富士山資料館(館長:渡辺徳逸氏)「富士山麓の文学と芸術-明治、大正、昭和初期-」にて絵巻物および油彩画など約20点展示(9月13日から10月25日まで)。
資料
1941年(昭和16年)、白糸の滝(富士宮市上井出)にて、崖上に建てた櫓の上から富士を描く。
1941年(昭和16年)、東京銀座青樹社画廊にて「近作個展」。
1942年(昭和17年)、東京銀座青樹社画廊にて「富岳展」。
1949年(昭和24年)10月下旬、箱根宮ノ下富士屋ホテルにて個展開催。
1952年(昭和27年)9月3日, 北海道釧路にて。明治鉱業, 西野氏の案内で。
1957年(昭和32年)12月、東京銀座なびす画廊にて「近畿旅行淡彩画個展」。
1962年(昭和37年)12月、東京銀座なびす画廊にて「富士山画個展」。